優しい時間 第十回

 勇吉が拓郎を許しがたい(和解しがたい)理由の吐露とそれを知った拓郎の悲壮なまでの償いの行動への心情を描く回。 テーマは『人はそのときの自分の思うようにしか行動できない』でしょうか。

 あれほど師匠に『乱すな』といわれながら、思いっきり乱しにいっちゃう朋子さんはどうしたもんでしょうか。しかも、拓郎にとってはもっとも乱される対象である刺青と父親について、ああまでいわれちゃたまりませんよ。このあたり、倉本さんの残酷さがよく出ていたと思います。

 運転していた息子のせいで妻が亡くなり、動転して帰国したばかりのところで『死神』と彫られた腕を見せられる。まるで、その刺青そのものが妻を奪った、そして、その刺青は息子の姿をした男の腕にある。かなりの精神的ショックがあったと思います。おそらくは『死神』の由来さえもそのときは知らなかったはずです。拓郎を遠ざける勇吉の気持ちもわかります。

 一方、拓郎も自分なりの必然性を持って、勇吉に刺青を見せざるを得なかった。なぜなら、母親が亡くなったのは、その刺青を見せまいとしたためだからです。『見せないことが不幸を招く』というふうに極端な理由付けをしてしまったがために、これ以上肉親に不幸なことを起こさせたくないという一心で刺青を見せてしまったんですね。

 『北の国から』では、五郎が子供と過ごさざるを得なくなったのは妻の不倫がきっかけでした。つまり、妻という最も愛すべき他人の喪失が家庭を再構築する契機だったわけです。(その後、妻がこの世からすらいなくなることでもう一歩再構築を前進させる駄目押しまでしています)五郎と純も最初は他人行儀な接し方しかできませんでした。このドラマでは同様に妻の喪失を契機として、いったん親子関係を破綻させた上で、その再生への道のりを描こうとしています。完全な破綻かどうかの違いはありますが、五郎が純に対して丁寧語を使わなくなる過程を、近代的(現代的じゃない)に極端に描いたのがこのドラマだとも言えるでしょう。純と拓郎では歳も違いますし、父親とは物理的に距離を置かざるを得なかった事情もあります。しかし、クリスマスの回想シーンなどでも明らかなように物理的事情だけではない距離感が父親側には以前からあり、それを決定的にして見せたのが妻の死と刺青だったと見るのが妥当ではないでしょうか。

 北の国からでは『(保護者たろうとする)父と(守られるべき)息子』だった関係を『(混乱の中自分のあり方さえも見失ってしまっている)父と(守ってもらった思い出の薄い)息子』に転換したといってもいいでしょう。妻の亡霊を相談相手にしなければ自分に向き合えない勇吉はまだ自分を取り戻せていないと私は見ています。最終回ではめぐみが勇吉に別れを告げるでしょうか。

 今回の子供(拓郎)の年齢を考えれば、もう少し自我が発達して、親離れができていてもいいのでしょうが、結局幼いころに守られていないという事情が、拓郎の『父親に自分のやっていることを認めてもらいたい』という強い希求につながっているのでしょうね。五郎と純に比べ、この親子は(年齢の割に)幼さを感じますが、それは倉本先生が今の親子関係をそう見て、警鐘を鳴らしているのではないかと思います。

 『君を海を見たか』『北の国から』『優しい時間』は倉本先生の『父子三部作』といってもいいかもしれません。どの親子もお互いに何か屈折や欠けたところがあり、それを歩み寄ることで克服していくというテーマが流れています。ここまで同じテーマにこだわるのはどういう理由があるのか興味があります。

 今回の内容から脱線してしまいましたが、清水美砂が明るい不気味さ、したたかさをうまく出していて『底の深い女優だなぁ』とあらためて感心しました。

 滝川の不倫を噂するシーンの画面切り替えはちょっと消化不良だと思いました。もっとうまくスイッチできるはずです。不安定さを狙った演出だとしたらちょっと的外れと受け取りました。

 次週でいよいよ最終回ですがどういう雪解けになるのか(予告がすべてじゃないですよね)非常に楽しみです。