砂の器について

 ネット上の感想を見ていると、最終楽章・前編の本浦親子放浪シーンが「長すぎて苦痛」とか「ドラマじゃないみたい」という感想が目についた。どう見ても松本清張の原作ではなく、橋本忍山田洋次脚本の映画版を「原作」として扱っている今回のドラマにとっては、この場面こそが命。そこをこういわれると、製作者側は辛いでしょうね。しかし、こういわれても仕方のない理由がいくつかあると思います。それについてはいくつか列挙して見ます。

全体が冗長
映画版は2時間強で全体を描ききっています。そのうち、放浪シーンが30分くらい(約1/4)。対して今回のドラマでは全十一回もあり、時間的には短く見積もって7時間半くらい。そのうち放浪シーンはおそらく一時間に満たないでしょう(1/8くらいか?)これだけ比べても、かなり余分なものを詰め込んでる感じが強い上に、テレビドラマは週一ですから視聴者の緊張を維持することが困難です。特に原作・映画を知っている人はそれと比べて、筋の運びの引き伸ばしにはらはらしたのではないでしょうか。ここは、フジテレビの「北の国から」を見習って、3時間半枠を二夜連続でやるようなスタイルにすべきだったのではないでしょうか。
放浪(場所移動)の必然性
映画版では本浦千代吉がハンセン病(らい病)患者のため、いわれなき迫害を受け、定住がかなわないので「移動」しているという設定です。対して、ドラマ版では、本浦千代吉が(理由はともあれ)犯罪をおこしてしまったため、警察の追っ手から「逃亡」しているという設定です。これはよく考えるとおかしい話で、警察の目を逃れるためであれば、どこかの山で「隠遁」すればいいのであって、海岸線に沿って「移動」する必要はないと思います。たとえば、南にいけばかくまってくれる人が居るとか、冬の寒さから逃れられるとか、理由はあるような気もしますがそのあたりは明確に提示されていません。(秀夫が最終的に長崎まで行っていることから、千代吉には南に対する思いがあったのかもしれません)
(映画館で見る)映画とテレビドラマの差異
テレビとは視聴者側に「操作権」が全面的に与えられた装置です。ビデオの普及していなかった昔は「時間」を操作することはできませんでしたが、いまや、追っかけ再生すら可能になっています。操作どころか暗闇の中で、行動さえ制限され、いやでもスクリーンに対峙し、居合わせた人々と共同体験を強いられる映画館という「装置」とは本質的に異なります。映像の美しさでは映画版に負けていないと思う今回の放浪シーンも「時間操作があたりまえ」になった今の一般的テレビ視聴行動からすると、緊張を維持させづらかったのでしょうか。短いサイクルでの刺激が連続するもの(お笑い・バラエティ・ジェットコースター型ドラマ等)でなければ、画面に惹きつけることがテレビでは難しいのかもしれません。余談ですが、たとえば「四季・ユートピアノ」(佐々木昭一郎作)を今若い人が見たらどう思うか、非常に興味があります。
リメイクという甘え
今回のドラマは私としては映画のリメイクと捉えています。製作者側は違うようなことをいっていたのを見た記憶がありますが、映画版の「命」を受け継いでいる限りは否定できないと思います。映画版を見たことがある人はあの放浪シーンが脳裏に焼きついているはずです。REIKOさんのコメント(baddreamfancydresser)にもあるようにそういう見た人は「脳内補完」しながら、甘美な記憶とダブらせて、つい見方にバイアスがかかって甘くなるのかもしれません。(私もその一人です)製作者側がこれに頼っているとも思えませんが、上記のようなテレビを取り巻く環境変化がある以上、30年の年月を経て、テレビというメディア上で同じことを行う事のリスクの大きさを認識していたかどうかが疑わしくなります。同じリメイクでも成功を収めた「白い巨塔」とは好対照でしょう。(少しやりすぎ感もこちらにはありますが)「高原へいらっしゃい」に続き「TBSはリメイクが下手だ」という印象が私の中に残ってしまいました。

 いろいろ考えたんですが、列記したように、作り手側の問題と受け手側の問題があり、難しいです。いっそ、再編集して年末くらいに三時間半ドラマで再放送してくれないでしょうか?